なぜ自分が?
膵臓がんと診断された時、そして闘病中には、十人中十人までが「なぜ自分が?」「どうして私は癌になってしまったのか?」と思うことでしょう。以前「癌と悩みと悟りと」でも書きましたが、もう一度、この問題を取り上げてみます。まとまらない記事ですが・・
ジョンズ・ホプキンス病院の掲示板に、以下のような投稿が載っていました。
ちょっとした迷いのメモ 08/08/2007 匿名希望
この世の落胆と悲しみのはざ間で、ときどき「なぜ?」という問いを頭から消すことができなくなってしまいます・・「どうしてあの人が?」「なぜ自分が?」もちろん私は無神論者ではありません、でも行ってはいけないと言われている方向に考えが向かってしまうことがあるのです・・「この道危険、通行止め」「『なぜ膵臓がんに』と考えてはだめ」・・すべての出来事には理由があるのでしょうか。多分そうなのでしょう、ただその理由も他のあらゆる理由も分からないだけ。
この道から離れた方がいいのはわかっています。この悩みは私の体を中からむしばんでいます。私のエネルギーはこの泥だらけの道で失われすぎてしまいました。そしてこの道は本当にどこへもつながっていないのです。「なぜ?」この悪名高い疑問を問いつづけて、私はとにかくとても疲れてしまいました。この気持ちがあなたに通じるでしょうか。だからここで、この道に区切りを付けましょう。明日は新たな一日の始まりです。まだあまり人がいない道を通る日になるでしょう。
希望の持てる景色の良い道を通って、その眺めを楽しんでみます。
これに対する現役膵臓がん患者、MaryGさんのレスポンスを訳しておきます。
私にとっては 08/08/2007 メアリーG
こんな風に考えてしまう時は、私だったら物事を逆の方向から見てみます。そうするとこの気持ちを処理できる気がするのです。
私はよく運命について考えます。我々は誰も自分の運命を知りません。私はひょっとしたら膵臓がんでは死なないかもしれない。私はよく新聞やテレビのニュースで聞いたことについて考えます。先日橋が落ちて亡くなった方のことーその方々は癌にかかってはいませんでした。その人たちは、私たちなら自分の愛する人や子供たちに伝えられる言葉を決して言えずに亡くなっていったのです。そして愛する人の方も、亡くなった人に決して言葉を届けられなかったのです。そしてそれがその人たちの「終わり」だったのです。あまりといえばあまりでしょう。
これは、意味が通じないかもしれませんが、変な言い方ですが、私が感謝の気持ち?を持つ方法なのです。ここでこんな言葉を使うのは適切ではないかもしれません。匿名希望さんには分かってもらえると思うのですが。私がこういう考え方をするようになったのは、ある日放射線治療に行く途中の高速道路でどこかのバカ者が150キロで急に割り込んできて(私も150キロ出していました)、車のコントロールが利かなくなったからでした。車は道路の外に飛び出して泥を跳ね上げてスピンしました。その瞬間私は死というものにとてもとても近づいたのでした。私は死ぬほど怖かった、心臓が飛び出しそうで、全身が震えました。そして気がついたのです、私は生還したんだ!と。思わず笑ってしまいました。
愛を込めて メアリーG
闘病中に壁にぶつかった時のための記事をここにまとめました。
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