やぶいぬ応援団

膵臓癌闘病記や生還者のアドバイス、新薬の治験情報や研究など元気が出る話題を個人が集めたブログです。 <免責事項>本ブログは特定の治療法や薬の使用を推奨するものではなく、このブログの情報を利用した結果について筆者は責任を負うことはできませんのでご了承ください。

ランディ=スタインの手記(抄訳)(2)

yabuinu52006-03-02

(1)の続き)
元サイト:
http://www.gemzar.com/life_stories/randy_stein.jsp

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妻ジュディは、私にとってのヒーローだ。彼女はすぐに走り出し、それから7年以上もの間、走り続けている。ジュディは翌日の夕方には、がん専門医の予約を取っていた。しかし予約は5日も先で、永遠にかかるかと思われた。


診察室に一度に入れる数には制限があるかもしれないとは思ったが、妻と、妹と、友人たちと、それから私自身を含めた皆で診察室に入った。医師の第一印象はこんな感じだった。時間きっちりで、真っ白な白衣を来て、思慮深く親切で、どんな質問にも答え、私の病気について、治療を行うとしたらどのような方針で行くか丁寧に説明してくれる人物。しかし、我々の耳に入ったのは医者が言ったことの4分の1だけだった。それを見て、医師は「セカンドオピニオンを受けるといいでしょう」と言った。それはいい考えだと思った。とても良い医師に見えたが、彼の下した診断は良いとはとても言えなかったからだ。診断は、悪性の腫瘍が膵臓の体部と尾部、脾臓と、腎臓にあるというものだった。私のCA19-9値は12,930で、この病院での正常値は0から37だと聞かされた。これは膵臓がんの活動度を調べるために使われる血液検査だ。我々はステージIVの、手術できない、脾臓と腎臓に転移した膵臓がんと闘っているのだ。医師の最後の台詞はこうだった。「本気で闘いたかったら、ここに戻ってきてください。」


繰り返すが、ジュディは私にとってのヒーローだ。数日のうちに我々はカリフォルニアで最も名高いがん専門医数人の予約を取ることができた。セカンドオピニオン、サードオピニオン、フォースオピニオンそして最後にはフィフスオピニオンまでもらいに行った。本当のところは最初の医者のところを出て他の医者にかかるのは心苦しかったのだが。我々は有名で評判の高い病院ならばどこへでも行った。ある医者には、「魚釣りをするような気分でドクターショッピングをしたいならどうぞ行ってください。」と言われた。(私は釣りは大嫌いだ。)あと3ヶ月と言われたことも、どうしてあなたが生きていられるのかわからない、と言われたこともあった。がんの『神様』と呼ばれる人の所に行って1時間以上待たされたあげく、「そうですね膵臓がんですね、あと3ヶ月ぐらいですね、じゃ、これから虫歯の治療に行かなきゃいけないんで。」と言われたこともあった。こんな経験をしたというだけでも、充分「がんを克服した人」の称号に値するだろう。


私の人生で一番重大で、一番最後かもしれない決断はーつまり主治医を選ぶことだがー、びっくりするぐらい簡単だった。我々は5人の医師にかかった。そのうち4人の言ったことは大体同じだった。お前は3ヶ月で死ぬ。そしてあと一人は、本気で闘いたかったらうちにおいでと言った。これはつまり、まだ希望はあるという意味だ。この手記を読んでいる方には自明のことかもしれないが、人を死に追いやるのは病気でも艱難でもない。絶望が最も危険なのだ。主治医は決まった。彼は激痛に対して、30mgの硫酸モルヒネと、オキシコドンアセトアミノフェンの合剤を出してくれた。ようやく、痛みがやわらいだ。


2日間のシティー・オブ・ホープ病院の滞在中にいくつか追加の検査を行った。そして数週間のうちには、治療計画が出来上がった。


次は、メゲストロールという名前の食欲刺激剤と、これから始まる化学療法に備えての様々な制吐剤だった。彼が私にくれた化学療法のレジメンは、計画を見直す時期が来るまで毎週、週に一回注射を行うというものだった。エポエチンアルファという赤血球を増やす薬の注射も始まった。私は注射なんて大嫌いだったので、週に3度の注射は何にも増して怖く、髪が抜けることよりも恐ろしかった。


友人たちのコメントがその恐怖をたちまち増幅した。「抗がん剤は毒だぜ。」「抗がん剤で毛が抜けるぞ。」「抗がん剤をやると具合が悪くなるんだ」そしてさらに、「抗がん剤をやったら死んでしまうぞ」というものまであった。


こうした「抗がん剤は体の毒」という言葉がどれほど強力だったかは、初めて化学療法を受けるときに、まだ化学療法というものがどんなものなのかどのように行われるのか知りもしないうちに、病院に行く途中で吐いてしまったというエピソードからもわかるだろう。前にも書いたように、想像力というのは素晴らしいものだが、油断をすると恐ろしいやりかたで人を翻弄する(私は油断していた)。『地獄の黙示録』という映画の中で、マーロン=ブランドはこう言う。「恐怖をお前の最良の味方にするか、最悪の敵にするかどちらかだ。その中間は無い。」


その時、私は病院の駐車場で吐いていた。まだ化学療法は始まりもしていなかった。私は悟った。抗がん剤を自分の味方、それも最良の味方だと受け入れなければならないのだ。これを受け入れれば命が助かる。


人生においては何事も簡単ではない。抗がん剤を最大の親友として受け入れることもだ。あれから5年以上たった今でも、私はその努力を続けている。イメージトレーニングを教わり、リラックス法を試し、どんなこともプラスの方向に考えるようにしながら。


妻と兄と私は静かな個室に通された。看護婦がやってきた。名札には「スローン」と書かれていた。もし抗がん剤が自分の最良の親友ならば、スローンは2番目の親友になるはずだ。彼女から、がんとその治療についての実際の情報とアドバイスを教えてもらうのだから。


スローンは点滴台に何袋も液体を掛け、私に袖をまくるように言う。彼女の手の中の注射針が見えると、私の額に脂汗が流れはじめる。私はサングラスをかけた。泣いている所を見られたら恥ずかしい。すると瞬きするかしないかの間に、針は私の腕にしっかり固定され、袋につながれた。私はショックを受けた。「なんだ、週に3回の注射なんて、大したことなさそうだ。」


点滴の後、我々は連れ立ってハンバーガーを食べに行った。俺はこれから生きるんだ、残された時間がどのぐらいあるか知らないが、少なくとも抗がん剤には負けないぞ! しかし2時間後、私は洗面器を抱きしめていた。それは1年半続いた。


家に帰ったとき、私はこれから自分が長いオーバーホール期間に入るんだと悟った。私の主な活動は寝ることになった。1日18時間も、たっぷり眠った。たっぷり眠れたのは、妻がただただ、ただ眠らせてくれたおかげだ。実のところ、妻はやらなきゃいけないことはみんな私がやるからと言ってくれた。やらなきゃいけないことはすべてだ。だから私の仕事はただ寝て、休んで、よくなることだけだった。私は実際よくなった。妻には本当に迷惑をかけたと思っている。大粒の宝石と、旅行と、永遠に感謝の言葉を言い続けるのと、どれがいい? こうした義務を果たすことは今の私の楽しみである。2月から7月まで、私の生活は週に4回あちこちの医者をまわり、抗がん剤を受け、寝て、吐いて、何とか食べようと努力し、人生を楽しもうとし、そして元気を出そうとすることの繰り返しだった。車の運転はできなくなったが、家に帰って寝る以外に行きたいところはどこにもなかった。


1997年、7月4日。毎年独立記念日には大きなパーティを開くことにしていた。今年も予定をかえる気はなかった。気分はすこぶる良かったし、ちょっとやせてはいたが、ここ数ヶ月私を苦しめていた痛みは軽くなっていた。庭のジャグジーに友人たちと皆で浸かっているとき、この日をモルヒネをのむ最後の日にしようと決めた。冷やした七面鳥を食べて、減薬期間もなしで、私はこいつとおさらばした!


そのときから、私は9月の結婚記念日に妻とパリに行くつもりだと周りに言いはじめた。
(つづく)

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