やぶいぬ応援団

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ランディ=スタインの手記(抄訳)(3)

yabuinu52006-03-03

(2)の続き)
元サイト:
http://www.gemzar.com/life_stories/randy_stein.jsp

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人生に目標をもつことは、どんな人間にとっても、どんな苦しみを抱えていたとしても、とても大事なことだ。最初、私は自分に「バレンタインデーまでは生き延びるんだ。」と言い聞かせた。次は妻の誕生日(3月19日)。その次は妻が4月15日までは生きていてくれと言ったー税金の申告をやってからいってもらわなくちゃ。その次が7月4日だった。モルヒネをのんだ最後の日。その時私は自分が新世紀のはじまりを見られるのではないかと思った。そして今は、また新たな目標を設定してそれに向かって努力を続けている。


「本気か? 体力は戻るのか? 絶対大丈夫なのか?」これが、1997年9月に二人でパリに行くつもりだと言ったときの異口同音の反応だった。本当のところは、我々は今まで絶対大丈夫だと思って行動したことなど一度もない。しかし、我々はパリに旅立った。毎日努力して、励みになる目標を設定し、自分と愛する人のためにそれを実現する。パリ旅行は今までの人生で最高のバケーションだったし、私にとっては重要な治療となった。その後、我々はアラスカに2度、イタリア、モントレー、サンフランシスコ、ジャマイカ、そしてプエルト・バヤルタに旅行した。もうすぐ次の旅行が待っている。今や私は、本気で旅は治療であると信じている。


1998年1月、私はコーチをつけてトレーニングを始めた。最初はゆっくりと5ポンド(2.2キロ)の重りから初め、次は10ポンド、それ以上は挙げなかった。しかし私にとっては試練だった。化学療法で筋力が無くなるのは、私にとってそのままにしておいて許せることでも治療不可能なことでもない。『犠牲者』になっていてはいけない。正直なところトレーニングは大嫌いなのだが、必要なことだとわかっていたし、課題が難しいからと言って泣いて引き下がるわけにはいかないのだ。どんなことも一生懸命努力し、治療に積極的に参加し、何が起こっているのか、どんな選択肢があるのか自分で理解し、疑問に思ったことはすべて尋ね、時間をかけるべきところにはとことん時間をかける。何が自分にとって気持ち良く感じられるか、何が自分の心に響くかを見極めることが必要だ。我々はみな一人一人違う。あなたの治療計画にあなた自身が関わること、そしてあなた自身の気分を良くすることは最も大切だ。我々は皆、一人一人が自分に最も心地よい、最も適したやりかたで、心と体と精神に栄養を与え癒して行くべきだと私は思う。私が採用した治療法もあれば、とても取り入れようとは思わないものもあった。ジュディは、健康食品店に行くと色々と買い込み、私が「それは勘弁してくれ」と思うようなものまで買ってくるのだった。特に『イモリの目玉』には参った。


私には、伝統的なまた非伝統的な西洋医学、それからイメージトレーニング、リラックス法のテープ、アメリカインディアンのホリスティック療法の儀式、それからたくさんのユーモアが効いたようだ。面白いジョークは、他のものと同じぐらい、がんを治す重要な要素だ。ユーモアのセンスをどうか失わずにいてほしい。人生のあらゆる要素は、一生懸命取り組む価値がある。化学療法を友とし、新しい生活スタイルに適応し、どんなこともプラスの方向に考え、生きる意欲を失わないこと。これらすべてにいつも心をくばっていなければならなかったし、いまもそうしようと努力している。


計画が進むのと同時に、我々は自分たちの周りからあらゆる悲観的な人間を排除し、ストレスをほとんどゼロまで減らすのに成功した。友人と家族に対する期待のレベルを、もう一度設定しなおした。また私は、一日に1時間以上、リラックス法とイメージトレーニングを(セラピストにもかかったしテープも買った)行うようにした。抗がん剤を敵から味方に変える段階で、これはとても役に立った。これで私の体は、抗がん剤がより効きやすい体になったのではないかと思う。我々はヨガ教室や、ストレッチングや、呼吸法を試した。それから、我々夫婦はがん患者の集いに参加した。この会で出会った人々もまた、私にとってのヒーローだ。私自身も、そして私を助けている妻もこの会にずいぶん支えてもらった。同じ病気を経験し克服しつつある人々の集まりにいると、気持ちが理解してもらえて慰められる。そして自分が一人ではないとわかって精神にエネルギーが供給されるのだ。私は最初に診断がついてから多分少なくとも1年半の間、朝目が覚めるたびに「俺はがん患者なんだ」ということを思い出していた。いまだにその考えは毎日私の頭に浮かんでくるが、少なくとも朝起きてまず最初に考えることではなくなった。自分の闘病を振り返るときには、なるべく物事をプラスにとらえるようにして(どうとらえたって自分の勝手だ)、自分に与えられた知識と経験の贈り物としてこれを生かしながら前に進んで行きたいと思っている。


我々は新たな人生の目標を設定した。それは、できるだけ多くの人と触れ合い、がんは死の宣告ではなく、人生におけるもうひとつの旅であり、我々は皆、限りある人生を十二分に生きることを学ばなければならないというメッセージを伝えることだ。


私は、逆境を経た今こそ、自分の人生は良くなったと言うことができる。共感と、喜びと、目標に満ちた人生。


私の話は1998年6月17日に飛ぶ。その日は、ある友人の言い回しだが「生まれて初めてフライドポテトを食べた日」より確かに、良い日となった。夕方5時。電話が鳴った。妻がそれを取り、私を呼ぶ。「お医者様からよ。」私は、電話に歩いて行き、それをスピーカーに切り替えた。医師の声が聞こえる。「ランディ、ジュディ、あなた方二人ともそこにいますか?」急いで「はい。」と答える。「ええと、たった今あなたの最新の腫瘍マーカーの結果が出ました。CA19-9は31.4まで戻っています。すっかり正常範囲です、おめでとう!」私は妻を見、妻は私を見た。二人の両目から涙が溢れ始めた。私は電話に向かって叫んだ。「先生も、おめでとうございます!」


その夜は夜通し祝杯をあげた。チリチーズホットドッグとドンペリニョン、それから素晴らしい友人たちと親族皆に電話をかけた。この闘いの間、彼らは信じられないほど私を支えてくれた。そして信じられないほど素晴らしいこの日を迎えることができた。その夜の喜びはいつまでも、私の中に残ることだろう。

(つづく)

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