やぶいぬ応援団

膵臓癌闘病記や生還者のアドバイス、新薬の治験情報や研究など元気が出る話題を個人が集めたブログです。 <免責事項>本ブログは特定の治療法や薬の使用を推奨するものではなく、このブログの情報を利用した結果について筆者は責任を負うことはできませんのでご了承ください。

トッド・モロー、13センチの腫瘍 後編

前編より続く)

残された時間はほとんどなかったが、父は43年前に入手していたミズーリ川大湿原の端にある11エーカーの土地に、夫婦ふたりのためのカントリーハウスを設計することに決めた。父の桁外れの情熱と心と心の強い結びつきが、仕事に行きながらこの大冒険に挑む父の道しるべとなった。父はこの戦いがどれほど波乱に満ちたものになるかよくわかっていた。にもかかわらず、全身でこの流れに飛びこんだのだ。父は3ヶ月で建てますという業者を見つけた。建築は2000年6月に始まった。父は15年間営業責任者として勤務してきたメンフィスのJ−ラインポンプ株式会社(今のアメリカン・マーシュ)への通勤を続けた。同時に父は125エーカーの農場の賃貸契約もまとめた。鮭が上流をめざして泳ぐように、父は自分の夢の卵を産みつける決心をしたのだ。父の一番の心配事は、自分のすい臓がんがどうなっているのか、そして今後どうなっていくのかということだった。すぐ次の心配は9NCの副作用のことだった。誰も気づいていなかったが、このとき時間は父に味方してくれていた。


残念なことに、家の建築には思ったより時間がかかってしまった。終わったのは2001年5月だった。いろいろな技術を利用して家でも勤務できるようにしたので、父は2002年3月まで生産的に働きつづけることができた。父の農場はその間も利益を上げていた。


すい臓がんの治療とは無関係なことだが、父は2002年3月に脳卒中と脳の動脈瘤を発症した。医療チームは奇跡的に父を治療して昏睡になるのを防ぐことができた。母は4月18日の父の61歳の誕生日の前日まで病院の父のベッドの隣にいた。孫たち(アダム、アンドレア、ローガン、ケイティ、テイラー、イーサン、スキラー)はふんだんな愛情とともにこのいつ終わるともしれない不安定な時期に身を捧げてくれた。孫たちの応援と、母の尽きることのない愛と献身的な介護のおかげで、父は誕生日を皆と一緒に家で迎えることができた‥‥そして今日まで父は持ちこたえている!


父を取り戻すことができ、家族一同感謝の気持ちで一杯だ。ぼくはカマスのように勇敢に闘った父をたたえたいと思う。身体に不自由なところはあるが、父の生活の質は61歳としては十分なもので、父と一緒に過ごせることはわれわれ家族の喜びだ。今、父はすい臓がんの治療はしていない。われわれは皆、父のすい臓の腫瘍が大きくならないことを願っている。

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