やぶいぬ応援団

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スタン・H・ターナー、7年たちました (前編)

yabuinu52006-07-24

  • PanCAN Newsletter 2003年7月号からです。ジェムザールがちょうど発売されたころの話のようですね。

スタン・H・ターナーメイン州 前編
2003年5月20日は、私がすい臓癌と診断されてから7周年にあたります。そして5月7日は、最後に化学療法をした日から3年の記念日なのです。


1996年5月、私は44歳でした。2歳の娘と8歳の息子に囲まれて、素晴らしい暮らしを送っていました。家のローンは第一回を払い始めるところで、人生はしごく順調でした。その前年、私は胆のうの摘出手術を受けていたのですが、同じような違和感をまた感じはじめたのです。数週間待って病院に電話をかけました。担当医は私を診察に来させると腹部を触診して、なにかが触れるというのです。私は超音波検査を受けることになりました。妻は当時、その総合病院のCT装置の技術主任として働いていました。超音波検査室の人たちとは友人でしたし、検査中も冗談を言い合っていたのですが、突然、彼らは冗談を返さなくなりました。放射線科医が呼ばれ、彼は超音波の画面を見るや否や私を廊下の反対側の内視鏡室へ送りました。気持ちのいい体験ではありませんでした。すい管を拡げようと検査医が四苦八苦しているところで目が覚めてしまったからです。私は病院に一泊することになり、翌日、生検が行われました。そして前の日に疑われた診断が確定したのでした。妻は信じられないぐらい素晴らしい人間です。彼女は何が起こっているかずっと分かっていたにもかかわらず、それを私には一言も漏らしませんでした。まったく、なんてすごい女性なんでしょう。


数日後、私たちは担当医と話をしました。彼はマサチューセッツ州バーリントンの病院に行くよう手配してくれました。CTの画像を見てウィップル手術ができるだろうと判断したのです。手術の日程が決まりました。しかしいざ手術してみると、ウィップル手術は不可能でした。あまりにも多くの血管が巻き込まれていたからです。代わりに外科医はバイパス手術を行いました。これは、放射線治療を受けても具合があまり悪くならずにすむように、また、よりたくさん放射線をかけられるようにするためのものでした。


回復室で目が覚めると、一人の外科医がベッドの傍らで言いました。「スタンさん、わたしの手を握ってください。」私は「先生がおきれいな方なのは分かってますよ、でも、どうして先生の手を握らなきゃいけないんです? 私はもう結婚してるんですよ。」彼女は答えました。「スタンさんには小さいお子さんが2人いますね。家に帰ったら3ヶ月、お子さんと一緒に過ごすんです。わたしたちは、あなたの癌を切除できませんでした。」このとき初めて、私は自分の置かれた重大な状況に気づいたのです。


彼女の答えがすごく気に入ったわけではなかったので、私は自分に言い聞かせました。「まだ抗癌剤だって放射線だってある。今までだってそれで癌が治った人がいるじゃないか。」このときはまだ、癌にも、そしてその治療法にも驚くほどたくさんの種類があるということは知りませんでした。この年になってもまだ勉強することがこんなにあるとは!


妻は、私を化学療法と放射線療法に送り出してくれました。数週間の化学療法の後、CTをもう一度撮影しました。良いニュースは、癌が大きくなっていないということでした。そして悪いニュースは、期待したほどには癌が小さくならなかったということでした。


後編につづく)

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