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ステーシー・K「家族の闘い」(前編)

StaciK


ステーシー・K、カリフォルニア州ロサンゼルス

父がすい臓がんと診断されて2年、父の生還の話をこうして書くことになるとは思ってもみませんでした。今回私たち家族の話を患者の方々やご家族の皆様に伝えて希望とインスピレーションを分かちあうことことができ、とても嬉しいです。


私が「すい臓がん」という言葉を最初に聞いたのは8歳の時でした。当時70歳の祖母が、この病気と診断されて9ヶ月後に亡くなったのです。祖母の死はとても悲しい出来事でしたが、でも人は生きていかなければなりません。私の人生にすい臓がんが想像もしなかったほど強い影を落としたのは、2001年のことでした。すばらしい父、ルーが53歳ですい臓がんと診断されたのです。私はその瞬間を忘れることができません。私はオフィスの自分の席に座っていました。両親が私に電話をかけてきてその知らせを告げたのです。私は何もかも置いて両親の元に走りました。腫瘍内科医は父の余命は6ヶ月だと言いました。母のメラニーと弟のジェフ(その時21歳でした)と私はショックを受け、打ちのめされ、恐怖におののきました。私は25歳で自分の父を失うという現実の可能性が出てくるとは思ってもみませんでした。私の結婚式で手を引いて歩いてくれるのは誰? 車が故障したら誰が助けてくれるの? 誰がつらいときに慰めてくれるの?


それからは毎日がパニックと恐怖の連続でした。母のことも気がかりでした。母は外側は強そうに映っていましたが、心の中では動揺していました。私たち家族は一つになってお互いを支えようとしました。私たちは前向きな気持ちを保つために、そして大切な事柄を決して見失わず、父が健康で強くいられるように全力でがんばりました。驚いたことには、家族の中で一番父がしっかりしていて、私たちが直面したこの戦いを受けて立ち、勝ち抜く気力があったのです。父が化学療法を始めた時、私たち家族はみな父の側にいました。それいらい、日曜日の夕食を一緒にとる習慣に新しい意味が生じました。


すい臓がんと診断される前、父はめったに病気にかからず、運動もしていたしタバコも吸わず健康的な食生活を送っていました。それから胃のキリキリするような痛みと疲労が父を襲い、過敏性大腸症候群と診断されたのです。幸運にも、母はその診断に同意せずCTを撮影するように強く主張しました。それで手術不能のすい臓がんが見つかったのです。恐ろしい統計の値を読む以外私たちはどうしたらよいのか分からなくなってしまいました。私たちは父がかかった腫瘍内科医が最新の治療を知っているものと信じていました。7ヶ月の治療の後抗がん剤が効かなくなると、その内科医は「これ以上できることはありません」と言いました。母はそんな言葉を受け入れませんでした!


その頃、私はPanCANジョンズ・ホプキンス病院の掲示板を見つけました。そこで抗がん剤を数種組み合わせて使う腫瘍内科医がいることを知ったのです。母はすぐにその医師に電話しました。2001年12月のことでした。4種類の化学療法を順繰りに使っているうちに、父のCA19-9は下がりはじめ腫瘍が縮小してきたのです。2002年9月、父はウィップル手術に臨みましたが、ケロイド組織があったため途中で中止になってしまいました。驚くことに、その時活動中のがん細胞は全く認められなかったそうです。5ヶ月間化学療法を休止したところ、2003年5月にCA19-9の値が上昇に転じました。父は多剤化学療法を再開しました。今回もまた、数値は下がってきています。CTでは悪いところはなく、父の態度も前向きです。

後編につづく)

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